『WANDA/ワンダ』(1970)

Movies / 映画の話

フランスでは高く評価されたけれど、本国アメリカでは1週間の単館上映で終わり、長年見向きもされずに葬り去られていたという女性監督の映画『WANDA』をシアター・イメージフォーラムで観てきた。

今、日本では「自己肯定感」という言葉が近年とても流行っている。大型書店の「自己啓発本」コーナーには、わんさかと色々な「自己肯定感」に関する本が並んでいる。ありすぎでどれを読めばいいのか分からない。
と言いながら、私も何冊かは買って読んだり、図書館で借りて読んだ。
少しばかりは、自分も自己肯定感が出てきたと思う。
(会社員卒業するまでの最後の数年間はかなり酷かったと、今になって思う。自分が何者だか分からない状態で勤めていたところを辞めた後は、だいぶよくなった。)
何にせよ、とにかくたくさんの「自己肯定感」本が出ているということは、それだけたくさんの人が悩んでいて、1~2冊読んだ位ではなかなか解決しないということだろうし、「自己肯定感」本の決定打もなかなかない、深淵なテーマなのだろう。

自己啓発系って、ハーバード式だの、スタンフォード式だの、マッキンゼー式だの、シリコンバレー式だの、アメリカ発だと思しきものが幅を利かせていると感じる。
でもね、読んでみるとなるほど、と思うけどさ、そもそも私はハーバードとか何も関係ない、世界も違うし、って思っちゃったりするわけですよ。
アメリカがすごいのか、アメリカの◯◯式、の発祥地がすごいのか分からないけれど、とにかくわたしゃ、エリートじゃないですよ、と思うから、なるほど、とかそういう考えもあるんだ!とは思っても自分ごとのように取り入れるのはなかなか難しかったりする。

そんなアメリカ発で、52年前に作られた女性によるインディペンデントムービーの日本初公開、ってやつを観に行って、そんな自分のモヤモヤ感がクロスオーバーしていた。
この映画を作ったバーバラ・ローデンという人は、「子どもの頃は映画が嫌いだった。スクリーンの中の人々は完璧で、劣等感を抱かせた」(パンフレットより)という。
この映画はまさに、(1970年当時に「自己肯定感」という言葉があったのかは知らないが)自己肯定感?そんなの知らないわよ、というか、強い反骨心が剥き出しで、この主人公自体には共感しないけど、自分だってそうなりうる、という自分ごとに感じるリアリティや説得力があった。

舞台の始まりは炭鉱、モノクロのような世界の炭鉱をカーラー巻きっぱなしでよろよろワンダが歩く長回しショットで、おおよそ上記の「〇〇式」の類のありがたい教えの発祥とはならなそうな地域であることを想像させる。
(同じイメージフォーラムで数ヶ月前に上映されていた、タル・ベーラの『ダムネーション 天罰』も最初の舞台が鉱山で長回しで、台詞だとかの説明がなくてもその後の不穏さを見る者に強くイメージさせる迫力があったことを思い出した)

アメリカに行けば自己肯定感が高まるという意見も度々見かける。
でもこの『WANDA』の舞台のような、こういう労働者が消耗品扱いになっているだけのような、いわゆる貧困地域は2022年の今でも存在している訳で、1970年に作られたこの映画はもう50年以上前の過去の話といえるのか。むしろ今でも厳然と横たわっているのではと感じる。昔スタイルで撮った今の映画だと言われても通用してしまうような普遍的なものを感じた。

それにしてもワンダは前半、かなり長いこと頭にカーラーを巻きっぱなしにして、服装もその辺にお遣いに行くようなラフな格好で、お金を借りに行き、バスにも乗り、裁判所にも行ってしまう。
いつカーラーを外すの!?とずっとヤキモキしていた。

やっと外したと思ったら、酒場でビールをおごってくれた見知らぬ男性と入った部屋のベッドの上のシーン。
(いったい、いつ何のために、カーラーをあんなにたくさん巻いていたのだろう。その部屋に入るまで、カーラーをつけっぱなしだったってことでしょ?)
その後も自尊心なく、隙だらけの行動ばかり。

とにかく52年前の映画だけど、こんな女性の主人公、見たことない。
圧倒的に、強烈に、だらしない、無気力な主人公。
「スクリーンの中の人々は完璧」の真逆。

でも

他人のせいにしない
当時としては流行りだったはずの「ヒッピー」になるわけでもなく、ドラッグ漬けになっているわけでもない

(花の帽子を途中で購入していたので、思わずスコット・マッケンジーの1967年ヒット曲『花のサンフランシスコ』脳内再生。)

ビール1杯の男性とすぐベッドを共にしてしまうが、逆にそのつけ込まれやすそうな装いや仕草をすることが、彼女の無意識レベルでの、生き抜く知恵なのかもしれない。

寝た男に金銭をせびるわけでもなく、(むしろこんなのもらいすぎ、とお金を返そうとする)
無気力ななりに、相手と交流しようとする気持ちもある

自分が役立たずだと自覚しているが、自殺願望があるわけでもない
自分がクズであるなりに、役に立てることがあれば役に立ちたいとはほのかに思っている
犯罪者にも依存して逃避行に付き合うが、直接的に犯罪に加担するミッションを与えられるとゲーゲー吐くなど、善悪に対する良心はある。

犯罪者の相手が、「そんな服装をするな」とワンピースを買ってくれた よろよろななりにハイヒールを履きこなすワンダ。
彼がワンダの役目実行をほめたことに、ワンダの胸に、少しばかりの自尊心を抱く光が差し込んだ。
ビールをおごってくれた男なら誰とでも寝てしまう人間だったが、事件が起こった後は、相手を拒絶する。
必死に逃げて、初めて声を上げて泣いた。

なのにそれでも最後に、やっぱり酒場に行っちゃうの?

だけどラストカットの表情。
救いはないけれど、彼女なりに人生が進化しているようにも感じた。
生命力さえ感じる。

(そして、私の脳内では田舎町ロッカー、ジョン・クーガーの『ジャック&ダイアン』が鳴り響く。
Oh yeah, life goes on…)

実際には、映画にはそんなドラマチックな音楽は流れていないけど。
ドラマチックじゃないところが、それがまた何だか生々しくてリアルだ。

監督・主演のバーバラ・ローデン。
見事なまでに真逆な主人公像の映画を、誰のためでもなく自分のために撮りきったのは、すごい。

アメリカでウーマンリブや女性のエンパワメントの波と逆行していて受け入れてもらえず、上映1週間で打ち切りだったそうだが、
そもそも制作中も賛同者が多くいるとは思えず、完成できない可能性も高かったんじゃないだろうか。
こんな女性像、撮ってどうする、と周囲には思われていただろうと感じる。
だけど完成まで漕ぎつけた。
しかし完成したものには、救いはないけれど、主人公はフラフラしていて意思なんかほとんど感じないけれど。
揺らぎのある一つ一つのショットにこれを撮りたいんだ、これを吐き出さなくては、というような気迫を感じる。
自分も女性だから、余計にそう思うのかな。

自己啓発本をいくつも読むと、セルフイメージを高めるために、イメージが低くなるものには目を向けるな、というような教えがあるけれど、
WANDAを観てから前に進んでもいいと思う。
本来、私はハッピーエンドが好きだけど、WANDAはもう別格。

すごい映画でした。
これを日本で配給した方も、個人で配給会社を立ち上げたばかりで、これが1作目なんですって。
配給者さんの意思の強さも感じる。
そしてこういう配給者さんの志を汲み取って、上映を実現させる、シアター・イメージフォーラムもすごい。

たくさんの人がこの映画を観るといいな。

WANDA/ワンダ 日本公式サイト

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